東京都大田区のまち工場|株式会社タシロイーエル
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ツールエンジニア2019年9号

魅惑・日本のモノづくり② 幕末編

 昨年、近所の腕の良い旋盤職人が残念なことに引退した。創意工夫をした治工具を自作して、人ができない製品を作ることのできる人だった。長年一人親方としてやってきたため、彼の技能を引き継ぐ人はいない。私が若いころ、彼が「俺に資金と時間をくれれば、潜水艦でも何でも作ってやる」と大言壮語といえることを言っていた。
 その頃は、そんなことできるわけがないと内心思っていたが、30年以上町工場に身を置いて、町工場のことを深く知ると不可能ではないと考えるようになってきた。実際、大阪の町工場数社が、協力して人工衛星を作ったことは有名な話である。私は、歴史的に見ても日本の発展に町工場が、大きく貢献していると思っている。一流の職人は、国家にとって貴重な宝だ。

 幕末、1853年アメリカから黒船がやってきて開国を迫ってきた。実は外国船は、その前から頻繁にやってきて、日本を脅かしていた。ロシア、イギリス、スペイン、また、国籍不明船など、記録されているだけで、125件にも上る。この中には現地の住民に、被害が及ぶような事件もあり、外圧が日に日に高まっていた。当時の人々は、この危機に、外国を打ち破れという攘夷派と開国派が、熾烈な争いを繰り広げ国論を二分していた。
 もう一つ、開明派と呼べる見識のある人もいた。勝海舟や薩摩藩主・島津斉彬は、その代表として有名である。開明派は、外国の技術や制度を取り入れて、産業を興し国防を強化しようと考えていた。島津斉彬は、欧米の近代文明を知り、薩摩藩を産業国家にすべく改革していった。造船所、精錬所など当時の産業に、必要なものを整えて、薩摩藩を幕末最強の藩に仕立て上げたことは有名である。

 
 佐賀藩・鍋島直正や宇和島藩・伊達宗城も開明派として活躍する。鍋島直正藩主は、オランダ船に乗る機会があり、その技術力・軍事力を見て衝撃を受ける。直正は、まず10年の歳月をかけ、人材育成を始める。そして、当時最先端の反射炉を作るように命じる。命じられた藩士は、『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』という、オランダ軍少尉が書いた書簡を手に入れ翻訳する。だれも作ったことがない反射炉を、だれに作らせるか考え、町場の腕の良い鍛冶職人や鋳物職人を集めて、挑戦することになった。
 
 この職人たちは、今でいうと町工場の職人である。製造の手掛かりは翻訳した書簡のみ、設計図もない。何回も失敗して、責任者の藩士は切腹して責任を取りたいと、直正藩主に願い出るということもあった。直正藩主は言葉を尽くして説得し、何とか開発を続行することになる。幾多の困難を乗り越え、日本人だけで、日本初の実用反射炉が完成する。
 この反射炉で、当時最先端のアームストロング砲を製造できるようになった。この開発の意義は大きく、日本近代産業化のシンボルともいえるだろう。その後、佐賀藩の技術指導で、日本各地に反射炉が建設されていく。

 当時の欧米諸国は、圧倒的軍事力でアジア諸国を植民地にしていた。大国清国がアヘン戦争に負けて、次は日本という状況になり、国防の必要性が切迫していた。長年、日本の技術や文化に、影響をもたらしていた中国の敗戦は、当時の人々には大きな衝撃だったと思う。
 長州藩の高杉晋作は、上海で現地の民が、奴隷として働かされているさまを見て、強い危機意識が芽生える。日本を上海のようにしてはいけない、日本が奴隷化されるようなことはあってはならないという思いが、命懸けで改革にまい進する動機となったといわれている。

 佐賀藩は、蒸気船の開発にも取り組むことになる。この開発には当時、からくり人形や、和時計を作って、評判だった田中久重を招聘した。田中久重は東芝の前身の会社の創業者で、現在では東洋のエジソンといわれるほどの発明家だった。その当時の、中小企業の社長兼開発製造者といったところだろう。1865年に竣工、凌風丸と命名される日本初の実用蒸気船となった。
 宇和島藩、伊達宗城の蒸気船開発も興味深いものがある。宇和島藩は、地域的に切迫して蒸気船を作る必要はなかったといわれるが、藩主の強い思いで蒸気船開発が始まることになる。命じられた藩士は、誰につくらせたらよいか全くわからない。よっぽど困ったようで、藩内で腕が良いという評判の、提灯屋の嘉蔵という職人に依頼することになる。嘉蔵は、長州から招いた医師の大村益次郎が翻訳した本をもとに、蒸気船の模型を作り上げる。伊達宗城藩主は、大変喜び褒美を取らせ本物を作るよう命じる。大村益次郎・嘉蔵を中心に独力で、しかもわずか三年で、蒸気船を完成させてしまうのだ。

 小説家の司馬遼太郎は、この時代宇和島藩で蒸気船を作ったのは、現在の宇和島市民のみで、人工衛星を打ち上げることに、匹敵するといっている。当時の日本人の、教養レベルの高さ、技術力・技能力のすごさに驚かされる逸話だ。

 この民度の高さが、世界で唯一植民地にされなかった原動力であると考えられる。植民地にされたアジアの国々は、蒸気船、反射炉、大砲など国を守るためのモノを、作る意志も技術力・技能力もなかった。この事実を見るとモノづくり力が独立国であるための、必須条件であることがわかる。
 これらの幕末の開発には、ともに町場の職人が、主役の一人として登場するが、歴史の表舞台には登場することはない。しかし、日本が欧米列強に飲み込まれなかった、大きな要因の一つが、町場のモノづくり力であることは間違いないだろう。戦後の日本復興も、製造業が主役で、その下支えを町工場が行った。このように、日本のモノづくり力の基本に、町工場の職人が重要な働きをしていることを多くの人にも知ってほしいと思う。町工場は、国にとって大切な公共財という側面があるのだ。

 日本の再軍備の是非について議論になることがある。現実を見れば答えは簡単である。『日本が外国から攻められることがなければ、軍備の必要はない、攻撃される恐れがあれば軍備は必要である』といえる。さて、いまの時代はどちらであろう。世界を見渡すと残念ながら、軍備を持たなければ、自由がなくなる恐れがあるのではないか。
 ここ数年を見ても、ロシアのクリミア併合、イスラエルのゴラン高原占領、中国の南沙諸島軍事基地化などがある。戦後まもなく、チベット、ウイグル、内モンゴルは軍事的に併合された。併合された国では、母国語や宗教までも制限され行動の自由、言論の自由も少なくなる。
 チベットは仏教国で平和主義だったため、軍隊を持っていなかった。軍事侵攻にあっという間に併合されてしまった。ウクライナは、冷戦が終了してソ連から独立した。アメリカ、ロシア、イギリス、ウクライナなどと、ソ連製の核兵器を廃棄する代わりに、領土保全の安全保障の協定を結んでいる。
 〈ブタペスト覚書〉世界では、国際条約を無視することが頻繁に行われていることは、北方領土問題や最近の韓国で日本が一番体験していることだろう。残念ながら、現代社会では、国力が弱くなると他国から経済的、領土的に侵略を受ける可能性が、極めて高くなるのが現実である。話し合いでの解決は、力を持っていなければ幻に終わってしまうのだろう。
 日本特有の平和思想が世界に広まることを願うばかりである。