師匠の引退
2011年11月に私が師匠として尊敬している方が廃業してしまった。その方は大田区で50年以上も機械加工を生業として活躍していた総勢5名の小さな会社のK社長である。機械加工、材料、熱処理、表面処理から設計・組立のことまでモノづくり全般に精通していた。K社長は晴天の心を持った無欲の人といえる。町工場のオヤジは誠実で真面目な人が多い、大田区産業振興公社の方が町工場の社長は酒席でも仕事の話ばかり、商店の人は遊びの話が中心になると話していた。中でもK社長は飛び抜けて私心・私欲のない人で顧客からも近隣の町工場仲間からも信頼されている人徳のある人物だ。小柄で温和な顔をしている。普段は威張ることは一切なくどちらかというとおとなしい印象である。
しかし、横車や理不尽なことに対しては断固とした態度をとる。いつも凛としている。その凛としている姿にあこがれてよくK社長のところに相談に行っていた。私欲がない分物事を見る目急所を見抜く目が鋭く相談事も的確に解答してくれる。機械加工の先生であり、町工場経営の先生、人生の道標的な方なので大変残念な出来事だった。工場の借地権契約の更新が様々な都合でできないため、数年前から決まっていることだった。高齢でもあり移転してまで続けることは選択肢になかったようだ。私が30歳でこの業界<金属加工業>に入って右も左もわからない時に近隣の町工場仲間から紹介されたのがK社長である。
生来虚弱で同じ仕事が長く続かないため父一人で営んでいた工場の家業を継ぐことにしたのだ。それまでは製造業とは全くかかわってこなかったずぶの素人。解らないところばかり、いや解らないところがわからないというところからだったと思う。解らないところがわかるようになるのに数年はかかった。K社長はその素人に付き合ってくれたのだから感謝せずにはいられない
教えを乞いに行くと<仕事を通してしか覚えられないよ>と言い仕事がない時は私にできそうな仕事をくれて、わが社に新しい仕事が来ると手伝ってくれた。K社長に見積もってもらうとよく受注することができた。図面上の確認事項も的確なので顧客に確認することで私が仕事がわかっているということになってしまい信頼につながった面があったと思う。H2Aロケット部品などの難しい仕事が来るとK社長のところに持っていき加工してもらう。品質が良いので次につながる。その繰り返しで受注を増やすことができた。まさに恩人である。
廃業案内のはがきに<製造業、小売業など末端で努力する所に光があたることを希望しての、六郷での43年間でした。>という一文があり、不器用に誠実に生きてこられた方の胸にしみいる言葉と感じた。私から見ると光が当たることを待っている人ではなく、私をはじめ多くの人に光を当ててこられた人だった。私がこの業界に入った平成元年には約10000件町工場が大田区に林立していた。現在の町工場は3000件台と言われている。7割近くも減ったことになる。半導体製造装置メーカーの経営者が半導体は競争に負けてしまったが装置メーカーは世界のトップを走っているのはなぜですか?との質問に日本には優秀な部品メーカーがあるからですと即答していた。日本の宝、大田区の宝がまた一つ消えてしまった。この20数年間少しでもK社長の技能を、知識を、知恵を受け継ぎたいと思って接してきたのだが半分も受け継げていないという感じがする。バブル崩壊から町工場の経済市況は雨・くもりばかり、しかし、大不況の中身銭を切ってでも雇用を守る心意気をもった町工場がたくさんある。その代表がK社長だった。教えていただいたことを次の世代に伝えていくことが恩返しになると思い晴天の心意気を伝えていきたいと奮闘している。