東京都大田区のまち工場|株式会社タシロイーエル
お電話でのお問い合わせ|03-3734-7225
連載記事ARTICLE
ツールエンジニア2020年7月号

知の巨人が愛した男・渋沢栄一

 2009年に出版された、作家・岩崎夏海氏の<もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら>がベストセラーになり、アニメや映画化され当時の社会現象になった。この社会現象で、ピーター・ドラッカーという経済・社会学者のことを知った人も多いのではないだろうか。日本ではドラッカーの著書がよく売れている。

なぜ、ドラッカーが日本で支持されるのか、彼の思想の根本に、日本の考え(道徳と経済の融合)が包含されているからだと思う。経営の神様、知の巨人といわれたドラッカーが、最も尊敬していた人物は、論語と算盤の実践者・渋沢栄一である。
ドラッカーの著書、『マネジメント』の序文には、<率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は責任にほかならないということを見抜いていた>と書かれている。社会的責任の先駆者は渋沢栄一であると絶賛している。

昨年、新時代令和が始まった。同時に、新一万円札の肖像を渋沢栄一にすることが発表された。そのニュースに触れたとき、飛び上がるほどうれしいという感情になった。やっと来たか、ようやく渋沢栄一を選んだかという感じである。日本には様々な偉人、英雄がいるが、渋沢栄一はその中でも飛びぬけた偉人であると思っていた。
恩師から、人を見る時は、私心の有無を見るようにと教えていただいた。歴史的人物を見る時も、私心のあるなしを基準にすると、より真実が見えてくるように感じる。今まで、なぜ渋沢栄一を肖像にしないのだろうと疑問に思っていたが、新時代令和まで待っていたのかもしれない。

江戸時代は、日本社会のすべての階層に道徳教育が行き届いていた。江戸末期や明治初期に、日本を訪れた多くの外国人が、手記の中で日本人の道徳観・倫理観の高さについて、驚嘆したと述べている。しかし、明治に入り、欧米の資本主義が導入されるともに、利益追求が行きすぎ、不良品を納入して儲けるなど、道義に反した詐欺的商売が一部で横行した。
 そこで、渋沢栄一は、論語と算盤、道徳と経済の融合を強く訴え、社会を啓蒙していった。資本主義にブレーキ役がないと、過当競争・弱肉競争となり社会が乱れてしまう。欧米でのブレーキ役は宗教である。日本では、論語、道徳、武士道などがその役を担っている。

現在の日本は、明治初期の状態と似ているところがあると思う。小泉政権頃よりグローバル経済が竹中平蔵のもとで推し進められ、現在は格差社会となって、若い人が夢や希望を持たなくなってしまった。行き過ぎた経済優先、自社優先になっていると思う。
バブル崩壊前の日本は、世界に類例のない資本主義を行っていた。国民総中流といわれ、富の分配が適正に近い形で行われていたように思う。平成の30年で、グローバル化が進み日本の良さ、強みが壊滅的にそぎ落とされてしまったようである。
この経済の停滞の一因は、国内産業の空洞化である。多くの企業が長年の取引を断って、人件費の安い中国などに移転したため、残された企業は疲弊してしまったのだ。企業の自社優先主義不況といえる。内部留保金460兆円の陰で、多くの中小企業が飲み込まれていったのである。格差社会是正が問われる、今こそ渋沢栄一の思想を思い返す時期といえるだろう。

渋沢栄一は、江戸末期の1840年に埼玉県深谷市の豪農に生まれている。10代は尊王攘夷派だったが、縁あって徳川慶喜の家臣になり、慶喜が将軍になったため幕臣として活躍する。
 慶喜の弟、徳川昭武のヨーロッパ視察の随員に選ばれ、パリを中心にヨーロッパを視察する好機に恵まれる。当時のフランスは、ナポレオン三世のもと、産業を興して貧乏をなくすという方針を打ち出していた。フランス政府が世界で初めて、金融の整備、インフラの整備、人材育成などの経済政策を総合的に実施していた。大きな成果を見聞した渋沢栄一は、資本主義の根本を肌で感じ大いに学んだ。
 滞在中に慶喜が大政奉還を行い、新政府が誕生して、途中で帰国することになる。帰国後、慶喜のいる静岡で日本初の株式会社を成功させた手腕を見込まれ大蔵省に入省する。国立銀行条例の制定などに携わるも、官僚が性に合わなかったようで、民間で産業を興すことを目指すことになる。

 当時の日本は、欧米列強の強い圧力の中にあった。アジアで植民地になっていない国は、日本、タイ、中国の一部だけだった。植民地にされる恐怖が、明治維新の原動力ともいえる。当時の渋沢栄一は『日本が諸外国に比肩する実力を備えないといけない。そのためには商工業の発展が極めて重要である。商工業の発展のために金融機関がしっかりと根付かないといけない』といっている。植民地支配から逃れるため、日本を強くすべく活動していったのである。
 まずはじめに、日本初の銀行(現みずほ銀行)を作る。紙幣づくりのための製紙会社(現王子製紙・日本製紙)も作った。JR東日本、東京電力、東京ガス、の前身会社、帝国ホテル、東洋紡、太平洋セメント、キリンビール、日本郵船等々、日本の産業に必要な会社を次々と作っていき、生涯500社近くの会社設立に携わることになる。
 1年に10社設立しても50年かかる。500社は驚異的数字であり、人間業とは思えないところがある。500社作ることもすごいと思うが、これだけの成功を収めたにもかかわらず、慢心したり驕ったりするところがない、という精神性のほうが素晴らしいと思う。一社、成功しても天狗になってしまう人が多いのではないだろうか。しかも、そのうちの6割以上の会社が今も存続している。

 ドラッカーが日本に興味を持ったきっかけは、日本には100年以上続く長寿企業が世界一存続していたからである。研究目的で日本に来日したとき、渋沢栄一について熱心に質問したという。ドラッカーは道徳ある経済を実践している日本を研究して、今流行りのCSR・企業の社会的責任を提唱していくことになる。
 渋沢栄一の著書・論語と算盤の中で、『その富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ』『信用はそれが大きいほど、大いなる資本を活用することができる。世に立ち大いに活動せんとする人は資本を作るよりまず、信用の厚い人たるべく心掛けなくてはいけない』といっている。

 ドラッカーも、渋沢栄一も、経済の根本・企業の存続発展には社会的信用が、不可欠であると見抜いていたのだろう。渋沢栄一の凄味は、学者・評論家と違い経済活動や社会活動を通して、自ら『論語と算盤』を実践することで、明治時代を変革していったところではないだろうか。

 今までのお話は、渋沢栄一の魅力の半分である。渋沢栄一の面白いところは、経済活動に留まらないところにある。渋沢栄一の活躍はまだまだ、続く。次号以降に社会活動家の面を書かせていただきたい。